2022年12月30日金曜日

青木葉鉱山、坑夫取立免状 (6) 友子①

 友子の概要
 主題とする「坑夫取立免状」であるが、坑夫については既に述べてきた。次にその坑夫を「取立」る「免状」とは何か、何を目的としているのかを先だって理解しておく必要があるだろう。

 基底にあるのは「友子」、あるいは「山中友子(さんちゅうともこ)」と称される組織(システム)である。坑夫はこの友子に取り立てられて、すなわち成員として認められてはじめて一人前の坑夫となった。
 では友子とは何か、多くの研究がなされたなかで、研究者でもなく単に鉱山を愛して気儘にブログを書いている、いわゆるシロートが今更友子を論じても詮無きことであるが、いままでにテキストを読んできた内容をここにまとめておく。なお、一般的な辞書などで解説される「友子」は別記しておく。<1>

 友子とは、鉱夫の非妻帯を前提に、同職組合で、鎚親性とも称する擬制的親子関係-親分子分という親方制度-をとりながら技術伝承・熟練労働力の養成や社会教育、労働力の供給調整、構成員の老後や疾病時の相互共済、さらに鉱山内の生活や労働条件の維持改善など多様な機能を持っていた。鉱山の中の坑夫という枠内、いわば橫の連携組織であり、鉱山経営の使用者と労働者という縦の関係にはなかった。すなわち、友子は賃金や労働条件を経営者に要求することを目的とはしていなかった。
 また、基本的には一山一組織であり、各鉱山の小さな組織間の繋がりはあるがそれらが大きな一組織に統合されることはなかった。

 生地から断絶し、終生鉱山に生きることを決め、血縁関係のなくなった坑夫が、擬制的な親子兄弟関係を結び、親分は父、兄貴分は母代わり、子分同士は兄弟であった。友子への加入を「出生」、友子が司るその儀式を「取立」と呼び、親分子分の固めの「結盃式」の後「出生免状」が与えられた
 友子に加入した者だけが技能伝承を許され、全国の鉱山で働くことができたが、友子の掟を破った者はどこの鉱山でも働くことは出来なかった。鉱山を渡る者は新たに訪れた鉱山での山中友子交際所の入口で仁義を切り、酒と食にあずかり、そこでの就職を希望しなければなにがしかの草履銭をもらって次の鉱山に向かって旅立った。
 
 友子は歴史的には江戸時代に成立したとされる。妻子を持つことを恥として諸鉱山を遍歴し、技術を磨き続けたが、家族を持たないがために病気や事故にあい、また、年をとると面倒を見てくれる人がいない。次第に擬制的親子関係(鎚親制度)を結ぶようになった。幕末に「友子」、近代には「友子制度となり、近代化とともに変容し、明治末から大正初期にかけて最盛期に達し、第一次大戦中に殆ど消滅したが、擬制的鎚親性は敗戦まで継続した。ただ日立鉱山にだけは友子が戦後まで残り、やがて消滅した。

 友子に加入するのは原則的に採鉱夫(金堀大工/堀大工)、支柱夫(留大工)、それらの近くで働く手子(堀子)に限られた。それらの労働には技術が必要でありまた常に危険に直面していたからである。友子は一山を中心とするが全国鉱山を包括するネットワークである。経済的に困窮者を救済できない場合は地方まであるいは全国まで範囲を拡大し解決を図った。一方、友子にそぐわない者は除名し、回覧にて他鉱山に展開して坑夫としての道を断ち、共同体の秩序を維持した。友子に見られる非血縁的親族関係は鉱山の特殊性である。友子は東北方面において強力に団結していた。親分・兄分は子分・弟分の面倒を見る。一方、子分、弟分も親分・兄分の生活手助けを要請され、子分の最重要なことは親分の死後の墓石建立、供養の実施にあった。

 鉱山経営の側面から見てみる。
 江戸期の主要鉱山は幕府の直轄であり、銅鉱山の場合は各藩の直営が多かった。鉱山主は山師に鉱山を請け負わせ、山師は堀場を金名子に請け負わせ、金名子とその下で坑夫が働く。前の「渡り歩く坑夫」で既述したように鉱山経営の実質的担い手は金名子と坑夫(堀子)であった。坑夫は賃金労働者の性格とともに、一方では鉱山請負人となって坑夫の上に立つ親方職人になる性格も有していた。
 江戸期が過ぎて鉱山経営が近代的企業の形態と化しても、明治大正末期までは労務管理能力は不十分であり、生活や労働の秩序を自主的に維持・規制する友子の機能は経営者にとって利用するに足るものであった。<2>

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<1>  普段利用している『大辞林 第ニ版)』には「友子」は「ともだち。仲間」と
  あるだけである。
 -『広辞苑 第六版』:②江戸時代、鉱山で一人前の坑夫の称。見習期を過ぎて後、
  更に一定の修行を終え、一人の親分の子分になったもの。③親分子分の関係をも
  坑夫組合の一員。
 -日本語国語大辞典[縮刷版]』(1975年発行、縮刷版1980年発行):②江戸時代、鉱
        山で一人前の坑夫をいう。一定の見習い期間(3年3か月10日)の堀子の修行をへ
  て、さらに3年3か月の修行を終えた者。
 web上の辞書などで探せば幾つかは見つかり、以下に引用しておく。
 - 『百科事典マイペディア』:山労働者の相互扶助組織。落盤,珪肺等の職業病や閉山
  の不安にさらされた生活を背景に,江戸中期にはすでに成立,やがて全国的規模に
  成長した。技能伝授の機能を果たすとともに,傷病への救済や失業者の就職斡旋等を
  行い,坑夫の移動時には友子同士が一宿一飯を供する仁義が守られた。第2次大戦後
  に消滅した。
 -     『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』:江戸時代から近代まで続いた鉱山労働
  者 (坑夫) の組合制度による一種の身分で,掘子などの見習い修業を経て初めて友子
  として取立てられた。友子になると,自助的な共済組織である友子同盟の成員として
  認められ,傷害,不具,廃疾などの場合,扶助,救済を受けることができた。
 - 精選版 日本国語大辞典』:江戸時代、鉱山で一人前の坑夫をいう。一定の見習い
  期間(三年三か月一〇日)の掘子の修業をへて、さらに三年三か月の修業を終えた
  者。
 -   『世界大百科事典 第2版』:坑夫の構成する,技能養成と自助的救済を目的とした
  集団。金属鉱山を中心に,一部は石炭山にも見いだすことができた。最近では歴史的
  な研究が進み,江戸末期にはすでに組織だった形をとっていたことが立証されている
  が,起源は必ずしも明らかではなく,おおむね江戸中期には成立していたと考えられ
  る。その機能は三つに分けて考えることができる。第1は技能伝授で,友子に加入す  
     ると特定熟練坑夫との間に親分・子分,兄分・弟分等の杯のやりとりをし,子分,弟分
  は親分,兄分から技術を修得するとともに,鉱山の共同生活を行ううえでなにかと庇
  護を受けた。
 -  『歴史民俗用語辞典』:坑夫の相互扶助集団。
 ※2023年3月2日、『日本国語大辞典[縮刷版]』の入手に伴い微修正。

<2>  以前の記載から転用し、追加および修正している。(以前の記載は、
  20160708 日本の鉱山の概要⑧ - 鉱山で働くと言うこと (3) 友子制度」)
主要参考文献は以下。
 - 松島静雄『友子の社会学的考察』(御茶の水書房、1978年)
 - 萩慎一郎『近世鉱山をささえた人びと』(山川出版社、2012年)
 - 松島静雄「鑛山に見られる親分子分集團の特質」(日本社会学会『社会学評論』
  Vol. 1 No. 11950年)
 - 村串仁三郎『日本の伝統的労使関係-友子制度史の研究』(世界書院、1989年)
 -  村串仁三郎『大正昭和期の鉱夫同職組合「友子」制度 : 続・日本の伝統的労資関
  係』(時潮社、2006年)
 -  土井徹平「近代の鉱業における労働市場と雇用  足尾銅山及び尾去沢鉱山の「友
  子」史料を用いて」(社会経済史学会『社会経済史学』第76巻第1号、2010年)
 - 松原日出子「現代社会における福祉と共同 -友子制度の現代的意味-」(松山
    大総合研究所『松山大学論集』第31巻第6号、2020年)

2022年11月10日木曜日

鉱山を舞台にした小説2冊

 『輝山』は20220113日にもう一つのブログに書いた。鉱山を舞台にしているのでこちらの方に移動したものである。その次に記している『しろがねの葉』は最近読んだものである。

<澤田瞳子 『輝山』(徳間書店、2021年)>:舞台は石見銀山。時代は天保期で老中首座・水野忠邦が辣腕をふるった頃。
 本文から引用すると、「輝山」とは「銀山町の人々みなを深く懐に抱き、その命の輝きを永遠に宿し続けるいのちの山」で、また、「山深くから切り出される銀の輝きは、もしかしたらこの地に生きる者たちの命の輝きそのものなの」なのであろう。
2021年上半期の直木賞を受賞した著者の本は初めてで、鉱山を舞台にした小説というそのことだけで手に取った。鉱山労働を直接的に、すなわち坑内労働など描写することはない。その点は勝手に抱いていた期待ははぐらかされた。坑夫は気絶えを待つ者として捉えられ、あとは選鉱するユリ女や、飲み食いする飯屋の主人と女、さらに酒飲みで荒れ寺の住職が物語の周辺にいる。代官所仲間の金吾が物語の主人公であり、基本は鉱山町という特殊な境界に生きる人々の人情と権力組織にいる者の権棒術数。よくある物語構成、だから倦きてくる。特に最終章は物語の展開に予定調和的な都合よさを感じてしまい、総じて粗雑さを覚えた。繰り返しになるが、鉱山町や鉱山生活者を描くのではなく、それらを手段とした、ある意味安易に、善意に満ちた人々の情を語った小説である。

<千早茜 『しろがねの葉』(新潮社、2022年)>:「しろがねの葉」は銀気を含む羊歯の葉。舞台は石見銀山で仙ノ山、石銀集落など実在した地が描かれる。時代は豊臣から徳川にかけての石見銀山が最盛期の頃である。
間歩、鏈、鉉、山師、柄山負、等々鉱山に関する言葉が頻出し、物語を読むのが嬉しく、また四葩や蕺などの植物に出てくると都度意味を確認するようになっていた。
村を逃散し、童のウメは家族から離れ迷い、「しろがねの葉」を手にした汚れた姿で山師/喜兵衛に拾われる。ヨキ・喜兵衛とともに山の中でウメは暮し、間歩に入ることを希んでいた。しかしそれは許されず生活の主体は石銀集落への通いとなる。佐渡に渡る喜兵衛とヨキから離れてウメは石銀集落で銀堀の隼人と共に暮らすようになる。子をなすが隼人はヨロケになり死ぬ。その後、ウメより年少の水浅黄の目の色を持つ龍と所帯を持つ。龍も肺を病み死ぬ。隼人との間の男の子も、同じく龍との子も間歩に入り同じように死ぬ。残ったのはウメと娘たち。
この物語の最後の段落、「指先すら見えない昏い間歩の底から、男たちがわたしの名を呼ぶのを。慈しんだ男たちは皆、あの無慈悲で温かい胎闇にいる。そこにわたしも還るのだ」。
生きる不条理さ、悲しさ、喜びなどといったことには思いを巡らさず、鉱山を舞台にしているというだけで楽しめた。悲惨さや歓喜を強く語ることはなく、情景を静かに描き、胸の内にある思いを山と溶け込ませている。鉱山という場への個人的な思い入れが勿論あり、それゆえにこの小説を読むことができたことが単純に嬉しい。
今年に入って鉱山を舞台にした小説は2冊目となる。いずれも石見銀山を舞台にしているが、前に読んだ『輝山』(澤田瞳子)は好みに合わず、辛口の読後感想文となった。2冊目となったこの小説は鉱山そのものを描いていて、『友子』(高橋揆一郎)と並んで優れた「鉱山(砿山)」小説といえる。

以上、先月24日に下書きを書いてから投稿するのを忘れていた。

2022年10月21日金曜日

青木葉鉱山、坑夫取立免状 (5) 渡り歩く坑夫

 鉱山で働く人たちの出生地は二つに大別できる。一つはよその地より移り来る人たちであり、もう一つはその地で生活していた人たちである。両者の比率は鉱山が位置する地理的条件によって異なる。鉱山が在村とかけ離れた地にあればほとんどの人がよそから移り来る人たちであるし、既存の村に鉱山が起こればその地は労働供給源となる。

 一般的に、鉱山は山間部僻地に多く存在しており労働力供給源より離れていること、また鉱山労働特有の技術・能力が求められるため、鉱山労働は移入する人たちで支えられている。鉱山経営側に立つ者を除けば、移り歩き働く人たちは、生地が山奥にあって働く場がない、長男でないために家督を継げない、貧乏である、そもそも職に就けない等々、移動することが必然的に運命づけられている階級の人たちである。一方、技術ある坑夫に師事し、自らの労働価値を高めることを求めて移り歩いた。又、閉山すればその地を去り新たな鉱山に働きの場を求めることが必然であった。新たに鉱山が開けば鉱山労働特有の技術・能力が求められ、その要求に応えるべく鉱山を渡り歩いた。渡り歩く坑夫は独身を原則としていた<1><2>。これは、熟練した技術を持った坑夫が一ヵ所に留まっていては、新しく発見された鉱山や増産が要請される旧鉱山の稼行に支障をきたすためであった。しかし、近代に入ってからは妻帯の制限はなくなった。

 鉱山が好調であればそこにとどまり、妻帯して代を重ねる人たちも出てくる。すなわち、坑夫には諸処の鉱山を渡り歩く者と、一箇所の鉱山に居住あるいは村に帰着することを望む者がいる。前者は渡坑夫(渡り金堀り)と称し、後者は自坑夫あるいは村方もの(村方金堀り)と呼んだ。渡は渡利/亙利と書かれることもある。<3>

 渡坑夫は生地との縁を切って鉱夫仲間に所属し、生涯を坑夫として生きる決心をした者である。渡坑夫の仲間組織があり、それに入るときは認知を受ける儀式があり、盃をかわすのであるが、それはそれまでの社会から断絶し鉱山社会に生きることを意味した。儀式は取立式と称し、頁を改めて詳述する。
 彼ら渡坑夫は流れ歩くことに誇りを持っており、村方ものを一段低く扱い、定住することを蔑んだ。渡坑夫は仲間組織の中で技術を磨き、新鉱山が発見されたときや増産要請のある鉱山に移動し、稼行の円滑化に貢献した。すなわち鉱山採鉱上の中核となる存在であった。

 近世においては、鉱山主の下で働く請負人が山師であり、その山師から一定の堀場を請負い、抱えている数人の坑夫(堀子)や手子を使って採鉱にあたる者が金名子(かなこ/金児)であった。すなわち金名子と堀子が鉱山経営においての実質的担い手であったと言える。
 山師を中心に坑夫は鉱山を渡り歩き、明治・大正期は鉱山経営とは無関係に、飯場頭を核とする組夫(下請け)と友子制度-後述-に基づく移動が特徴となり、大正中期あるいは昭和初期からは会社系統によって移動することが多くなった。<4>

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<1>  独身すなわち妻帯しないという原則ではなく、妻帯しなくとも一人前の仕事を果たせねばならないという坑夫の心構えを示しているとも捉えられる。
近代では妻帯の規制はない(『足尾に生きたひとびと』村上安正、随想舎、1990年)

<2>  徳川時代の「山例五十三ヶ条」(23)に「山師は格別金堀師の儀妻女無之者にすべし」とある。 『本邦鉱業と金融』上野景明・三上徳三郎、丸善, 1918年、85-92頁)

<3>  以下、参考として記載しておく。
 「ニつの区分や呼び名は家康の命名によるとか、慶長十三年に家康が発布した「山例五十三ケ条」を地方に伝えるため渡り歩いた者が渡利坑夫となり、一定の地に居ついた者が自坑夫だという説もある。あるいはまた自坑夫の妻帯は自由だけれど、渡利坑夫はそれを許されないため諸山を渡り歩いたとか、自坑夫は地坑夫であって元来土着の者を意味するなど諸説入り乱れているのである」(高橋揆一郎 『友子』河出書房新社、1991年)

<4>  明治後期・大正初期の坑夫が3年以上一所に止まる割合はほぼ3割、またその調査とは別の文献においては1年間で約7割が移動し、更に、ある鉱山での平均在籍期間は半年であった。以上は、『労働者の遍歴と社会的連帯』(土井徹平、日本労働社会学年報第15号、2005年)に論じられている。

2022年10月12日水曜日

前々回の投稿に注記追加

 8月17日「青木葉鉱山、坑夫取立免状 (3) 青木葉鉱山の概要」に注記<4>を追加した。

2022年9月18日日曜日

青木葉鉱山、坑夫取立免状 (4) 坑夫

 鉱山、鉱夫と坑夫
鉱山とは地下資源の有用鉱物を採掘して工業用原料として供給する事業所を指す。金属鉱山で言えば、鉱山は試掘から製錬・精錬までを含む鉱業全般に近い意味を込めていたり、時代によっては採掘する現場そのものを鉱山と呼んでいたりする。

 鉱山で働く者は鉱夫あるいは坑夫と総称されることが多く、一般的には鉱山労働は地中の坑内で鉱石を採掘することと捉えられることが多い。しかし、鉱山労働は坑内労働と坑外労働に大別され、坑夫は、本来は坑内労働であり採鉱夫または開抗夫を意味していた。鉱夫と坑夫の意味するところは文献によって一定ではない。採鉱夫を鉱夫と呼んでいたり、坑内夫を鉱夫としていたり、採鉱夫を坑夫としていたりと読む側は混乱する場合もある。広辞苑(第6版)でも、坑夫は「鉱山・炭山の採掘作業に従う労働者」で、鉱夫を「鉱山で鉱石採掘に従事する労働者」としており、鉱夫は坑夫に包含される用語と捉えられ、曖昧である。本ブログにおいては、次のように定義しておく。すなわち「鉱夫は鉱山労働者一般」を指し、「坑夫は坑内の採鉱作業に従事する者」とする。よって文献において採鉱夫を意味するものとして鉱夫を使用していても、本ブログでは坑夫と言い換える。「坑内夫も鉱山の坑内での労働に従事する者」とおき、坑内の採鉱作業に従事する者としての坑夫とはしない。整理すると、鉱山で労働する鉱夫には坑外夫と坑内夫がおり、坑内夫の中に坑夫が位置するものとしている。坑内労働(坑内夫の労働)の用語についてはより詳しく後述する。尚、坑外労働については原則言及しない。

 私的なことであるが、私(筆者)は鉱山というと、鉱山全体の選鉱所や社宅以外に直接目にした設備として、工作機械-旋盤やボール盤、選鉱場の上にあった巻揚(上)機、トロッコ、トロッコのレール、ボールミル、浮選機、発電機などが思い出され、坑内労働に携っていた人たちについては労働を終えて社宅まで歩いていた姿を思い出す。坑夫という言葉をはじめ、鉱山での暮しの中で○○夫という言葉には記憶が薄い。鉱員・職員・職長・技師・・・といった言葉に馴染みがある。1953(昭和28)年頃から1972(同47)年までの間に積み重なった記憶である。

 坑夫とは
坑内職のメインは、支柱で保坑された坑内で鉱石を採掘し、それを運び出すことである。つまり坑内のメイン作業は支柱構築(坑内の支保)、鉱石の掘り出し-鉱山によっては採鉱を金堀/銀堀(かねほり)とも称していた-、鉱石の運び出し、という三職である。

 近代以前の採鉱は、坑夫(または掘大工、金穿大工)が手掘りで坑道を切り、鉱床から鉱石を掘り出して、外まで運び出した。坑夫は簡単な支柱や足場も自分で作った。もっとも規模の小さい鉱山や景気が悪い所では、支保に従事する留大工は確保できず、山師の指揮の下で坑夫が支保に従事することが多かった。

 坑内の枠組み、支保(支柱を作る)に従事する者は、四つ留大工あるいは留大工、あるいは支柱夫、支繰夫と呼ばれる。規模の小さい鉱山や景気が悪い所では、支保に従事する留大工は確保できず、後述する山師の指揮の下で坑夫(掘大工)が支保に従事することが多かった。

近代化に伴って火薬で発破を掛けるようになり、また作業の分業化がすすむと、手掘りで発破孔を掘るのは坑夫、岩盤を削っていく進鑿夫、馨岩機を使用して掘るものは盤岩夫(鑿岩機夫)と言った。

鉱石を運搬するのは運搬夫(坑内運搬夫、旧称は負い夫)である。近代化された鉱山では鑿岩機の摩耗鑿の交換や故障鑿岩機の運搬も担った。負子や手子は補助作業者であり、負子は石集めや運び出し、木材の運搬などに従事し、手子は坑夫の下働きや手掘りの鑿の運搬、支柱夫の手伝いであった。雑役夫はその呼称通り雑役を担う労働であり、文献で見た訳ではないが負子や手子を括ったようなものであろう。雑役夫や運搬夫は坑内で働いても坑夫ではなかった。

すなわち「坑夫」とは坑内で採鉱労働に従事する者-手掘り坑夫(堀大工)・鑿岩夫・支柱夫(留大工)を指すものと捉えられる。

 坑夫に求められる技術
岩石に穴を穿つことができれば坑夫であると捉えるのは正しくない。近代以前の坑夫であろうと近代の鑿岩夫であろうと求められる技術・技能に変わりはない。すなわち、岩石や鉱床の状況に応じて対象鉱物を効果的効率的に採鉱することである。品位のよい-含有率が高い-部位を判断し、どこに鶴嘴を振るのか、どこに鑿を当てるかの、あるいはどの位置にどれだけの火薬量を充填すればよいのかを判断した上で鏨を使いこなし、鑿岩機であればその角度や穿孔する深さを的確に決めることである。採鉱するばかりではなく、軽度の大工や鍛冶仕事もこなし、他の坑内作業にも通じる能力も求まれた。支柱夫であれば安全に抗道を確保する支保の技術が必要となる。それらには熟練した坑夫から教えられつつ相当の年限と訓練を積まなければならず、すなわち技術が継承されることで坑夫は技術を高めながら鉱山で働き稼ぎを得る。

 坑内労働に就く者は一般的に雑役夫からはじめ、次に運搬夫となり、運搬夫を経験してから採鉱夫になることができた。運搬夫を雑夫とする鉱山もあった。採鉱夫でも最初は手掘り坑夫そして鑿岩夫となる鉱山もあった。技術の難易度によって地位、すなわち賃金は雑役夫<運搬夫<(手堀り)坑夫<鑿岩夫となる。さらにその上は支柱夫であった。支柱夫は坑道を安全に支えるために「支柱夫は神」と一目置かれたが、鑿岩夫の賃金が支柱夫よりも高い鉱山もあり、一様に支柱夫が一番上位にあるとは言えないようである。<1><2>

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<1>  昭和31年の新鉱業開発宮田又鉱業所での坑夫の賃金は日当であり、多くは請負計算
        による出来高払いであった。
      鑿岩夫:1m掘削で2千円、火薬代その他を差し引き日給700800円。
      運搬夫:一屯車一台あたり6円、六分屯車一台当たり4円の単価で,日給は400500
      円。
      支柱夫:500600円。
      出典協和の鉱山と松田解子文学を伝える会・宮田又会編『宮田又鉱山思い出文集
      鉱山桜』(協和の鉱山と松田解子文学を伝える会・宮田又会、2013年)83-84頁。
  鉱山には「やま」とルビが付されている。
     
<2> 1906(明治39)年の東北平均日給は以下のようであった。
      ① 金銀山
   坑内=523厘、支柱夫=580厘、手子(男)=350厘、選鉱夫(男)=31
   銭0厘、製煉夫(男)=350厘、運搬夫坑内(男)=337厘、
   職工坑内(男)=3?0厘、職工坑外(男)395厘、雑夫坑外=32銭?厘、
   選鉱夫(女)=11銭0厘、製煉夫(女)=130
    ② その他
   坑内=627厘、支柱夫=535厘、手子(男)=289厘、選鉱夫(男)34
   1厘、
   製煉夫(男)=397厘、運搬夫坑内(男)=445厘、職工坑内(男)=40
   6厘、
   職工坑外(男)=43?厘、雑夫坑外=335厘、選鉱夫(女)=144厘、
   製煉(女)=142
     出典:農商務省鉱山局『鉱夫待遇事例』(19081月)、56頁。

2022年8月17日水曜日

青木葉鉱山、坑夫取立免状 (3) 青木葉鉱山の概要

 青木葉鉱山の位置
  青木葉鉱山は、古来有数の金銀鉱地域に属していた高玉鉱山の三鉱区(鶯・本山・青木葉)の一つであった。鶯抗が最も高い位置にあり、青木葉抗が最も低い位置にある。高玉鉱山は著名であり、さらにかつて居住していた奧会津の横田鉱山社宅近傍に位置する田代鉱山の関連からその鉱山名は知っていた。しかし、青木葉鉱山坑夫取立免状を手に取るまでこの青木葉鉱山を私は全く知らなかった。

高玉の地域はGoogleマップに郡山市熱海町高玉を入力して検索すると容易に確認できる。そもそもは1889(明治22)年の町村制施行で高玉村・玉川村など4村が合併して高川村が発足し、以降町制施行と改称で熱海町となり、さらに郡山市に併合されて現在に至っている。
東日本JR郡山駅から会津若松駅を経由して新潟県新津駅までを結ぶ磐越西線が運行しており、郡山市から15km強の営業距離の4駅目に磐梯熱海駅があり、鶯・本山鉱区はその駅より北北東4kmに位置し、磐梯熱海駅の一駅郡山駅側の安子ケ島駅より北方約3kmに青木葉鉱区があった。南より北に向かって青木葉-本山-鶯となる。Googleマップで”高玉鉱山”を検索すると”高玉鉱山 閉山”と名のついた地が確認できるがそこがかつての青木葉抗跡である。数年前までは「ゴールドマイン高玉観光株式会社」となって鉱山施設となった箇所が示されていたが、今はそれもない。

開抗から閉山
会津蘆名(芦名)期の1600年頃、東蒲原郡(現新潟県)や村田郡(同宮城県)・長井(同山形県)、飛地として庄内や佐渡も会津領であった。この慶長年間(1596~1614年)の時代、高玉・加納・高籏・佐渡の金山は会津領内の4大金山と称されて国内に知られていた。<1>
天正年間(15731591)に鉱脈が発見され、蒲生氏郷が本山(元山)地区を開発し開抗されるも転封後中絶し長い間廃山となっていた。本格的に稼行すべく製錬と採鉱を再開したのは1886(明治19)年の長崎県人松浦建二であり、1893(同23)年より、のちに加納鉱山開発に関与した肥田昭作が継承した。1908(同41)年以降は日立鉱山精錬所に売鉱していた。肥田は1913(大正2)年に肥田鉱業合名会社を設立している。

1918(同7)年に久原鉱業株式会社が買収した。当時の従業員数は419人であった。1920(9)年に青木葉鉱床の開発に成功し、1922(11)8月より稼行した。1925(同14)年に高品位脈に当たり同年8月に初荷として5トン、貨車14万円の鉱石を日立鉱山に出した。1926(同15)年に青木葉抗にトラックが入った。
同年初めの高玉鉱山の鉱夫人数は合計200名程 その内採鉱夫は約150名。月当たりの算出鉱量は約35万貫(1,313t)であり、純金20貫(75kg)、銀200貫(750kg)であった。採鉱方式は橫坑で、鉱床に沿って、その走向方向に掘り進む𨫤押または坑内の下方から上方へ向けて掘上げる切上りによって行われ、主に鑿岩機を使用しており、本山抗で10台、鶯坑で6台、青木葉坑で10であった。鉱石は坑内から選鉱場に運ばれ選別の上貯鉱所に運ばれるが見るべき設備もなく運賃も低廉であった。しかし、国内屈指の金銀山であった。<2><3> 

1933(昭和8)年には120mの青木葉第2立坑ができた。
1939(同14)年に精錬所を増設し、高玉鉱山は黄金期を迎え、最盛期には年間粗鉱量14t、金量1t、銀量10tを産し、1,400人の人員を要した。<4>

久原鉱業は1928(同3)年に日本産業株式会社に改称し、1929(同4)年に鉱山・製錬部門を分離・独立して日本鉱業株式会社が設立された。本ブログで扱っている『青木葉鉱山取立免状』が交付された1929(4)年は日本産業から日本鉱業に鉱業権が移った時期にあたる。

高玉鉱山は1941(16)年には国内有数の金山となっていた(鴻之舞金山・鯛生金山とともに日本三大金山と呼ばれていた)。
1943(18)年に金山整備令で精錬を中止し日立鉱山に売鉱することになったが、敗戦を経た1947(22)年には復活している。
1952(27)10月に青木葉抗は休山となり、1953(28)年に玉森鉱業に租借権を与え熱海鉱山として採掘することとなる。その後の青木葉抗閉山までの経緯は把握できていない。言い換えれば玉森鉱業や熱海鉱山を知ることができない。青木葉鉱山は高玉鉱山を離れると語られることがなくなったということであろう。その後の高玉鉱山が閉山するまでは以下のとおりである。

1962(37)10月に日本鉱業から分離し高玉鉱山株式会社に経営移管となり独立した。ちなみに以前記した横田鉱山近傍の田代鉱山は操業時「高玉鉱山株式会社田代鉱業所」であった。(参照:https://tandtroom-mines.blogspot.com/2016/08/、「奥会津横田鉱山⑨ - 田代鉱山、そして鉱山の終焉」)
1967(同42)年現在の稼行は本山のみであり、前述したように青木葉抗が閉じた時期は掴めなかったし、鶯抗も同様に分かっていない。
1976(同51)年)に本山も閉山。大きく捉えると高玉鉱山本山は1573(天正元)年から1976(昭和51)年の400年間にわたる鉱山であった。青木葉鉱山は30数年から40年間ほどの稼行であったと推測する。

1996年に観光施設として旧青木葉抗がゴールドマイン高玉観光株式会社の名の下に設立された。そして16年後の2012年に休業となった。<5>

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<1> 和田豊作『東北鉱山風土記』(和田豊作、1942年)、「高籏鉱山」403頁。
<2>   1926(大正15)年初め・・・国内屈指の金銀山であった」は下記に拠る。
        高橋哲彌「高玉鉱山」(『日本鑛業會誌』No.509、昭和29月)。
        尚、本史料の本文欄外には日本業鑛會誌と誤植されている。
<3>   「月当たりの算出鉱量は約35万貫(1,313t)であり、純金20貫(75kg)」とあるが、これは1tあたり57gの金となる。この数値は異常に高い。事実であったとすれば世界を含めた歴史上特筆すべき高品位である。参考までに記すと、現在稼行している菱刈鉱山では鉱石1t中の平均金量は約20gと世界有数の高品位であり、世界での平均は35gであると菱刈鉱山のHPにある。
        また、Wikipedia(高玉金山)や他のwebでは、1tの鉱石から最大で10kg20kgの金が採れた、と記載されているが、この異常とも思われる数値は裏付け資料の提示がない。おそらくkggの誤植であろうし、ある記事よりそのままコピー・アンド・ペーストされて使い回されていると推測する。
<4>   高橋正「高玉鉱山」(『日本鉱業会誌』Vo83No9561967-12)。
        「粗鉱量14t、金量1t」は、粗鉱1tあたり7gであり、この値は一般的平均値であると言えよう。

上記以外に参考としたものは以下;
        和田豊作『東北鉱山風土記』(和田豊作、1942年)。
        福島県立博物館/編『企画展 ふくしま 鉱山のあゆみ -その歴史と生活』(福島県立博物館、1992年)。
        佐藤一男『ふくしまの鉱山』(歴史春秋社、2005年)。
        肥田鉱業合名会社はwikipedia、久原鉱業の改称改組はJX金属のホームページを参照。

<5>   青木葉鉱山と同様に、廃鉱跡地に抗道観光を軸として営業をしている(していた)主な鉱山施設等を以下に記す。
  佐渡金山(新潟県)・尾去沢鉱山(秋田県)・土肥金山(静岡県)・生野銀山(兵
   庫県):それぞれ、史跡佐渡金山・史跡尾去沢鉱山(旧マインランド尾去沢)
   土肥金山・史跡生野銀山と称し、(株)ゴールデン佐渡が抗道観光グループと
   て運営している。
  荒川鉱山(秋田県):マインロード荒川として営業、2007年(平成19年)坑道崩
   により休業。
  高玉鉱山(福島県):既述、現在は廃屋と化している。
  尾小屋鉱山(石川県):尾小屋鉱山資料館・尾小屋マインロード
  別子銅山(愛媛県):マイントピア別子
  串木野鉱山(鹿児島県):ゴールドパーク串木野として営業、2003年(平成15年)
   閉鎖。跡地は濱田酒造が薩摩金山蔵として運営。
  石見銀山(島根県):世界遺産・石見銀山遺跡、抗道観光は龍源寺間歩。
  足尾銅山(栃木県):日光市の足尾銅山観光が運営
  明延鉱山(兵庫県):抗道観光は養父市が管理。
  延沢銀山(山形県):抗道は自由に入れる。近くに銀山温泉。
  吹屋銅山(岡山県):笹畝抗道、高梁市観光協会
  鯛生金山(大分県):地底博物館 鯛生金山
  秩父鉱山(埼玉県):和銅遺跡
  野田玉川鉱山(岩手県):マリンローズパーク野田玉川
  細倉鉱山(宮城県):細倉マインパーク
  日立鉱山(茨城県):日鉱記念館、抗道モデルが展示されている。鑿岩機コレ
   シンは圧巻。
  神岡鉱山(岐阜県):ジオスペースアドベンチャー
  柵原鉱山(岡山県):柵原ふれあい鉱山公園

青木葉鉱山、坑夫取立免状 (2) 再開-ここまでの経緯とこれから

 「青木葉鉱山、坑夫取立免状 (1)」を載せたのが昨年2021年の523日、この史料を軸として「友子」の概要を自分なりにまとめようとし、資(史)料に当たりメモもとっていた。しかし、取立免状の構成に沿ってメモを整理し文章化することをサボリ続けた。

その後1年の間、前半は資料を読むこととメモの作成に集中し、後半に入ってからはサボリモードに入り、鉱山から離れて、すなわち気持ちの上では離山し、身近の関心事に気持ちを向けてしまった。出身高校の校歌をもじって言えば「難きを忍ばず易に就いた」ということとなろう。ともあれ、そのふらついてしまう浮気心に鞭打って、やっと日常生活の一部を再び鉱山に向けることとした。それが今年の梅雨入りの頃。従って以下の文章は6月から書き始めたものである。

以下、現在考えていることは、まずは青木葉鉱山の概要をまとめ、次に「坑夫取立免状」の内容に入る前に「坑夫」と「友子」について記述し、その後に本題の「坑夫取立免状」の内容に沿って確認したことなどを書き進めることとする。
学問的には真新しいことは何もない。青木葉鉱山の坑夫取立免状をトリガーにして友子の概要を自分なりに整理しようとしているに過ぎない。そもそも現在商業的に採掘稼行している金属鉱山は菱刈鉱山のみであり、同じく炭砿も一企業しか存在しない-それも山ではなく海底下だが-。手掘りや鑿岩機などで採鉱する鉱山はもはや死語になっているとも思っている。このような状況下、拙いながらも学習リポートを自らに提出するようにまとめておきたい。

構成としては最初に青木葉鉱山の概要-位置・開抗から閉山-をまとめておく。次に坑夫と友子について記述する。ここまでを前置き-いわば予備知識-として述べ、その後に青木葉鉱山の坑夫取立免状に書かれていることに沿って知り得たことを書きすすめる。

尚、私(筆者)は鉱山(金属鉱山)・砿山(非金属鉱山)・炭砿を使い分けることを原則としている-石油や採石は対象外-。しかし、本ブログ「青木葉鉱山、坑夫取立免状」においては特に断りがないかぎりそれらに共通する内容も多い。例えば「坑夫」と記すとそこには鉱山や砿山・炭砿での坑夫を含み、特に金属鉱山のみを意識しているわけではない。現に、近世では「鉱山」は金属鉱山を指し、近代に入ってからそこに炭砿や砿山が含まれるようになり、現在、「鉱山」を言葉にすると金属鉱山も非金属鉱山も採石も炭砿もすべて括られてイメージされることが一般的である。