2022年10月12日水曜日

前々回の投稿に注記追加

 8月17日「青木葉鉱山、坑夫取立免状 (3) 青木葉鉱山の概要」に注記<4>を追加した。

2022年9月18日日曜日

青木葉鉱山、坑夫取立免状 (4) 坑夫

 鉱山、鉱夫と坑夫
鉱山とは地下資源の有用鉱物を採掘して工業用原料として供給する事業所を指す。金属鉱山で言えば、鉱山は試掘から製錬・精錬までを含む鉱業全般に近い意味を込めていたり、時代によっては採掘する現場そのものを鉱山と呼んでいたりする。

 鉱山で働く者は鉱夫あるいは坑夫と総称されることが多く、一般的には鉱山労働は地中の坑内で鉱石を採掘することと捉えられることが多い。しかし、鉱山労働は坑内労働と坑外労働に大別され、坑夫は、本来は坑内労働であり採鉱夫または開抗夫を意味していた。鉱夫と坑夫の意味するところは文献によって一定ではない。採鉱夫を鉱夫と呼んでいたり、坑内夫を鉱夫としていたり、採鉱夫を坑夫としていたりと読む側は混乱する場合もある。広辞苑(第6版)でも、坑夫は「鉱山・炭山の採掘作業に従う労働者」で、鉱夫を「鉱山で鉱石採掘に従事する労働者」としており、鉱夫は坑夫に包含される用語と捉えられ、曖昧である。本ブログにおいては、次のように定義しておく。すなわち「鉱夫は鉱山労働者一般」を指し、「坑夫は坑内の採鉱作業に従事する者」とする。よって文献において採鉱夫を意味するものとして鉱夫を使用していても、本ブログでは坑夫と言い換える。「坑内夫も鉱山の坑内での労働に従事する者」とおき、坑内の採鉱作業に従事する者としての坑夫とはしない。整理すると、鉱山で労働する鉱夫には坑外夫と坑内夫がおり、坑内夫の中に坑夫が位置するものとしている。坑内労働(坑内夫の労働)の用語についてはより詳しく後述する。尚、坑外労働については原則言及しない。

 私的なことであるが、私(筆者)は鉱山というと、鉱山全体の選鉱所や社宅以外に直接目にした設備として、工作機械-旋盤やボール盤、選鉱場の上にあった巻揚(上)機、トロッコ、トロッコのレール、ボールミル、浮選機、発電機などが思い出され、坑内労働に携っていた人たちについては労働を終えて社宅まで歩いていた姿を思い出す。坑夫という言葉をはじめ、鉱山での暮しの中で○○夫という言葉には記憶が薄い。鉱員・職員・職長・技師・・・といった言葉に馴染みがある。1953(昭和28)年頃から1972(同47)年までの間に積み重なった記憶である。

 坑夫とは
坑内職のメインは、支柱で保坑された坑内で鉱石を採掘し、それを運び出すことである。つまり坑内のメイン作業は支柱構築(坑内の支保)、鉱石の掘り出し-鉱山によっては採鉱を金堀/銀堀(かねほり)とも称していた-、鉱石の運び出し、という三職である。

 近代以前の採鉱は、坑夫(または掘大工、金穿大工)が手掘りで坑道を切り、鉱床から鉱石を掘り出して、外まで運び出した。坑夫は簡単な支柱や足場も自分で作った。もっとも規模の小さい鉱山や景気が悪い所では、支保に従事する留大工は確保できず、山師の指揮の下で坑夫が支保に従事することが多かった。

 坑内の枠組み、支保(支柱を作る)に従事する者は、四つ留大工あるいは留大工、あるいは支柱夫、支繰夫と呼ばれる。規模の小さい鉱山や景気が悪い所では、支保に従事する留大工は確保できず、後述する山師の指揮の下で坑夫(掘大工)が支保に従事することが多かった。

近代化に伴って火薬で発破を掛けるようになり、また作業の分業化がすすむと、手掘りで発破孔を掘るのは坑夫、岩盤を削っていく進鑿夫、馨岩機を使用して掘るものは盤岩夫(鑿岩機夫)と言った。

鉱石を運搬するのは運搬夫(坑内運搬夫、旧称は負い夫)である。近代化された鉱山では鑿岩機の摩耗鑿の交換や故障鑿岩機の運搬も担った。負子や手子は補助作業者であり、負子は石集めや運び出し、木材の運搬などに従事し、手子は坑夫の下働きや手掘りの鑿の運搬、支柱夫の手伝いであった。雑役夫はその呼称通り雑役を担う労働であり、文献で見た訳ではないが負子や手子を括ったようなものであろう。雑役夫や運搬夫は坑内で働いても坑夫ではなかった。

すなわち「坑夫」とは坑内で採鉱労働に従事する者-手掘り坑夫(堀大工)・鑿岩夫・支柱夫(留大工)を指すものと捉えられる。

 坑夫に求められる技術
岩石に穴を穿つことができれば坑夫であると捉えるのは正しくない。近代以前の坑夫であろうと近代の鑿岩夫であろうと求められる技術・技能に変わりはない。すなわち、岩石や鉱床の状況に応じて対象鉱物を効果的効率的に採鉱することである。品位のよい-含有率が高い-部位を判断し、どこに鶴嘴を振るのか、どこに鑿を当てるかの、あるいはどの位置にどれだけの火薬量を充填すればよいのかを判断した上で鏨を使いこなし、鑿岩機であればその角度や穿孔する深さを的確に決めることである。採鉱するばかりではなく、軽度の大工や鍛冶仕事もこなし、他の坑内作業にも通じる能力も求まれた。支柱夫であれば安全に抗道を確保する支保の技術が必要となる。それらには熟練した坑夫から教えられつつ相当の年限と訓練を積まなければならず、すなわち技術が継承されることで坑夫は技術を高めながら鉱山で働き稼ぎを得る。

 坑内労働に就く者は一般的に雑役夫からはじめ、次に運搬夫となり、運搬夫を経験してから採鉱夫になることができた。運搬夫を雑夫とする鉱山もあった。採鉱夫でも最初は手掘り坑夫そして鑿岩夫となる鉱山もあった。技術の難易度によって地位、すなわち賃金は雑役夫<運搬夫<(手堀り)坑夫<鑿岩夫となる。さらにその上は支柱夫であった。支柱夫は坑道を安全に支えるために「支柱夫は神」と一目置かれたが、鑿岩夫の賃金が支柱夫よりも高い鉱山もあり、一様に支柱夫が一番上位にあるとは言えないようである。<1><2>

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<1>  昭和31年の新鉱業開発宮田又鉱業所での坑夫の賃金は日当であり、多くは請負計算
        による出来高払いであった。
      鑿岩夫:1m掘削で2千円、火薬代その他を差し引き日給700800円。
      運搬夫:一屯車一台あたり6円、六分屯車一台当たり4円の単価で,日給は400500
      円。
      支柱夫:500600円。
      出典協和の鉱山と松田解子文学を伝える会・宮田又会編『宮田又鉱山思い出文集
      鉱山桜』(協和の鉱山と松田解子文学を伝える会・宮田又会、2013年)83-84頁。
  鉱山には「やま」とルビが付されている。
     
<2> 1906(明治39)年の東北平均日給は以下のようであった。
      ① 金銀山
   坑内=523厘、支柱夫=580厘、手子(男)=350厘、選鉱夫(男)=31
   銭0厘、製煉夫(男)=350厘、運搬夫坑内(男)=337厘、
   職工坑内(男)=3?0厘、職工坑外(男)395厘、雑夫坑外=32銭?厘、
   選鉱夫(女)=11銭0厘、製煉夫(女)=130
    ② その他
   坑内=627厘、支柱夫=535厘、手子(男)=289厘、選鉱夫(男)34
   1厘、
   製煉夫(男)=397厘、運搬夫坑内(男)=445厘、職工坑内(男)=40
   6厘、
   職工坑外(男)=43?厘、雑夫坑外=335厘、選鉱夫(女)=144厘、
   製煉(女)=142
     出典:農商務省鉱山局『鉱夫待遇事例』(19081月)、56頁。

2022年8月17日水曜日

青木葉鉱山、坑夫取立免状 (3) 青木葉鉱山の概要

 青木葉鉱山の位置
  青木葉鉱山は、古来有数の金銀鉱地域に属していた高玉鉱山の三鉱区(鶯・本山・青木葉)の一つであった。鶯抗が最も高い位置にあり、青木葉抗が最も低い位置にある。高玉鉱山は著名であり、さらにかつて居住していた奧会津の横田鉱山社宅近傍に位置する田代鉱山の関連からその鉱山名は知っていた。しかし、青木葉鉱山坑夫取立免状を手に取るまでこの青木葉鉱山を私は全く知らなかった。

高玉の地域はGoogleマップに郡山市熱海町高玉を入力して検索すると容易に確認できる。そもそもは1889(明治22)年の町村制施行で高玉村・玉川村など4村が合併して高川村が発足し、以降町制施行と改称で熱海町となり、さらに郡山市に併合されて現在に至っている。
東日本JR郡山駅から会津若松駅を経由して新潟県新津駅までを結ぶ磐越西線が運行しており、郡山市から15km強の営業距離の4駅目に磐梯熱海駅があり、鶯・本山鉱区はその駅より北北東4kmに位置し、磐梯熱海駅の一駅郡山駅側の安子ケ島駅より北方約3kmに青木葉鉱区があった。南より北に向かって青木葉-本山-鶯となる。Googleマップで”高玉鉱山”を検索すると”高玉鉱山 閉山”と名のついた地が確認できるがそこがかつての青木葉抗跡である。数年前までは「ゴールドマイン高玉観光株式会社」となって鉱山施設となった箇所が示されていたが、今はそれもない。

開抗から閉山
会津蘆名(芦名)期の1600年頃、東蒲原郡(現新潟県)や村田郡(同宮城県)・長井(同山形県)、飛地として庄内や佐渡も会津領であった。この慶長年間(1596~1614年)の時代、高玉・加納・高籏・佐渡の金山は会津領内の4大金山と称されて国内に知られていた。<1>
天正年間(15731591)に鉱脈が発見され、蒲生氏郷が本山(元山)地区を開発し開抗されるも転封後中絶し長い間廃山となっていた。本格的に稼行すべく製錬と採鉱を再開したのは1886(明治19)年の長崎県人松浦建二であり、1893(同23)年より、のちに加納鉱山開発に関与した肥田昭作が継承した。1908(同41)年以降は日立鉱山精錬所に売鉱していた。肥田は1913(大正2)年に肥田鉱業合名会社を設立している。

1918(同7)年に久原鉱業株式会社が買収した。当時の従業員数は419人であった。1920(9)年に青木葉鉱床の開発に成功し、1922(11)8月より稼行した。1925(同14)年に高品位脈に当たり同年8月に初荷として5トン、貨車14万円の鉱石を日立鉱山に出した。1926(同15)年に青木葉抗にトラックが入った。
同年初めの高玉鉱山の鉱夫人数は合計200名程 その内採鉱夫は約150名。月当たりの算出鉱量は約35万貫(1,313t)であり、純金20貫(75kg)、銀200貫(750kg)であった。採鉱方式は橫坑で、鉱床に沿って、その走向方向に掘り進む𨫤押または坑内の下方から上方へ向けて掘上げる切上りによって行われ、主に鑿岩機を使用しており、本山抗で10台、鶯坑で6台、青木葉坑で10であった。鉱石は坑内から選鉱場に運ばれ選別の上貯鉱所に運ばれるが見るべき設備もなく運賃も低廉であった。しかし、国内屈指の金銀山であった。<2><3> 

1933(昭和8)年には120mの青木葉第2立坑ができた。
1939(同14)年に精錬所を増設し、高玉鉱山は黄金期を迎え、最盛期には年間粗鉱量14t、金量1t、銀量10tを産し、1,400人の人員を要した。<4>

久原鉱業は1928(同3)年に日本産業株式会社に改称し、1929(同4)年に鉱山・製錬部門を分離・独立して日本鉱業株式会社が設立された。本ブログで扱っている『青木葉鉱山取立免状』が交付された1929(4)年は日本産業から日本鉱業に鉱業権が移った時期にあたる。

高玉鉱山は1941(16)年には国内有数の金山となっていた(鴻之舞金山・鯛生金山とともに日本三大金山と呼ばれていた)。
1943(18)年に金山整備令で精錬を中止し日立鉱山に売鉱することになったが、敗戦を経た1947(22)年には復活している。
1952(27)10月に青木葉抗は休山となり、1953(28)年に玉森鉱業に租借権を与え熱海鉱山として採掘することとなる。その後の青木葉抗閉山までの経緯は把握できていない。言い換えれば玉森鉱業や熱海鉱山を知ることができない。青木葉鉱山は高玉鉱山を離れると語られることがなくなったということであろう。その後の高玉鉱山が閉山するまでは以下のとおりである。

1962(37)10月に日本鉱業から分離し高玉鉱山株式会社に経営移管となり独立した。ちなみに以前記した横田鉱山近傍の田代鉱山は操業時「高玉鉱山株式会社田代鉱業所」であった。(参照:https://tandtroom-mines.blogspot.com/2016/08/、「奥会津横田鉱山⑨ - 田代鉱山、そして鉱山の終焉」)
1967(同42)年現在の稼行は本山のみであり、前述したように青木葉抗が閉じた時期は掴めなかったし、鶯抗も同様に分かっていない。
1976(同51)年)に本山も閉山。大きく捉えると高玉鉱山本山は1573(天正元)年から1976(昭和51)年の400年間にわたる鉱山であった。青木葉鉱山は30数年から40年間ほどの稼行であったと推測する。

1996年に観光施設として旧青木葉抗がゴールドマイン高玉観光株式会社の名の下に設立された。そして16年後の2012年に休業となった。<5>

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<1> 和田豊作『東北鉱山風土記』(和田豊作、1942年)、「高籏鉱山」403頁。
<2>   1926(大正15)年初め・・・国内屈指の金銀山であった」は下記に拠る。
        高橋哲彌「高玉鉱山」(『日本鑛業會誌』No.509、昭和29月)。
        尚、本史料の本文欄外には日本業鑛會誌と誤植されている。
<3>   「月当たりの算出鉱量は約35万貫(1,313t)であり、純金20貫(75kg)」とあるが、これは1tあたり57gの金となる。この数値は異常に高い。事実であったとすれば世界を含めた歴史上特筆すべき高品位である。参考までに記すと、現在稼行している菱刈鉱山では鉱石1t中の平均金量は約20gと世界有数の高品位であり、世界での平均は35gであると菱刈鉱山のHPにある。
        また、Wikipedia(高玉金山)や他のwebでは、1tの鉱石から最大で10kg20kgの金が採れた、と記載されているが、この異常とも思われる数値は裏付け資料の提示がない。おそらくkggの誤植であろうし、ある記事よりそのままコピー・アンド・ペーストされて使い回されていると推測する。
<4>   高橋正「高玉鉱山」(『日本鉱業会誌』Vo83No9561967-12)。
        「粗鉱量14t、金量1t」は、粗鉱1tあたり7gであり、この値は一般的平均値であると言えよう。

上記以外に参考としたものは以下;
        和田豊作『東北鉱山風土記』(和田豊作、1942年)。
        福島県立博物館/編『企画展 ふくしま 鉱山のあゆみ -その歴史と生活』(福島県立博物館、1992年)。
        佐藤一男『ふくしまの鉱山』(歴史春秋社、2005年)。
        肥田鉱業合名会社はwikipedia、久原鉱業の改称改組はJX金属のホームページを参照。

<5>   青木葉鉱山と同様に、廃鉱跡地に抗道観光を軸として営業をしている(していた)主な鉱山施設等を以下に記す。
  佐渡金山(新潟県)・尾去沢鉱山(秋田県)・土肥金山(静岡県)・生野銀山(兵
   庫県):それぞれ、史跡佐渡金山・史跡尾去沢鉱山(旧マインランド尾去沢)
   土肥金山・史跡生野銀山と称し、(株)ゴールデン佐渡が抗道観光グループと
   て運営している。
  荒川鉱山(秋田県):マインロード荒川として営業、2007年(平成19年)坑道崩
   により休業。
  高玉鉱山(福島県):既述、現在は廃屋と化している。
  尾小屋鉱山(石川県):尾小屋鉱山資料館・尾小屋マインロード
  別子銅山(愛媛県):マイントピア別子
  串木野鉱山(鹿児島県):ゴールドパーク串木野として営業、2003年(平成15年)
   閉鎖。跡地は濱田酒造が薩摩金山蔵として運営。
  石見銀山(島根県):世界遺産・石見銀山遺跡、抗道観光は龍源寺間歩。
  足尾銅山(栃木県):日光市の足尾銅山観光が運営
  明延鉱山(兵庫県):抗道観光は養父市が管理。
  延沢銀山(山形県):抗道は自由に入れる。近くに銀山温泉。
  吹屋銅山(岡山県):笹畝抗道、高梁市観光協会
  鯛生金山(大分県):地底博物館 鯛生金山
  秩父鉱山(埼玉県):和銅遺跡
  野田玉川鉱山(岩手県):マリンローズパーク野田玉川
  細倉鉱山(宮城県):細倉マインパーク
  日立鉱山(茨城県):日鉱記念館、抗道モデルが展示されている。鑿岩機コレ
   シンは圧巻。
  神岡鉱山(岐阜県):ジオスペースアドベンチャー
  柵原鉱山(岡山県):柵原ふれあい鉱山公園

青木葉鉱山、坑夫取立免状 (2) 再開-ここまでの経緯とこれから

 「青木葉鉱山、坑夫取立免状 (1)」を載せたのが昨年2021年の523日、この史料を軸として「友子」の概要を自分なりにまとめようとし、資(史)料に当たりメモもとっていた。しかし、取立免状の構成に沿ってメモを整理し文章化することをサボリ続けた。

その後1年の間、前半は資料を読むこととメモの作成に集中し、後半に入ってからはサボリモードに入り、鉱山から離れて、すなわち気持ちの上では離山し、身近の関心事に気持ちを向けてしまった。出身高校の校歌をもじって言えば「難きを忍ばず易に就いた」ということとなろう。ともあれ、そのふらついてしまう浮気心に鞭打って、やっと日常生活の一部を再び鉱山に向けることとした。それが今年の梅雨入りの頃。従って以下の文章は6月から書き始めたものである。

以下、現在考えていることは、まずは青木葉鉱山の概要をまとめ、次に「坑夫取立免状」の内容に入る前に「坑夫」と「友子」について記述し、その後に本題の「坑夫取立免状」の内容に沿って確認したことなどを書き進めることとする。
学問的には真新しいことは何もない。青木葉鉱山の坑夫取立免状をトリガーにして友子の概要を自分なりに整理しようとしているに過ぎない。そもそも現在商業的に採掘稼行している金属鉱山は菱刈鉱山のみであり、同じく炭砿も一企業しか存在しない-それも山ではなく海底下だが-。手掘りや鑿岩機などで採鉱する鉱山はもはや死語になっているとも思っている。このような状況下、拙いながらも学習リポートを自らに提出するようにまとめておきたい。

構成としては最初に青木葉鉱山の概要-位置・開抗から閉山-をまとめておく。次に坑夫と友子について記述する。ここまでを前置き-いわば予備知識-として述べ、その後に青木葉鉱山の坑夫取立免状に書かれていることに沿って知り得たことを書きすすめる。

尚、私(筆者)は鉱山(金属鉱山)・砿山(非金属鉱山)・炭砿を使い分けることを原則としている-石油や採石は対象外-。しかし、本ブログ「青木葉鉱山、坑夫取立免状」においては特に断りがないかぎりそれらに共通する内容も多い。例えば「坑夫」と記すとそこには鉱山や砿山・炭砿での坑夫を含み、特に金属鉱山のみを意識しているわけではない。現に、近世では「鉱山」は金属鉱山を指し、近代に入ってからそこに炭砿や砿山が含まれるようになり、現在、「鉱山」を言葉にすると金属鉱山も非金属鉱山も採石も炭砿もすべて括られてイメージされることが一般的である。

2021年11月12日金曜日

荒川鉱山に関連しての一冊

<山田勲 『鉱山開発の先駆者 瀬川安五郎』(図書刊行会、1988年)>:住んでいたことのある宮田又鉱山の近隣にあった荒川鉱山、とはいっても荒川鉱山は1940(昭和15)年に閉山となっているが、自分にとっては記憶の中にある鉱山である。宮田又にいたときの運動会で、山を越えて行った荒川の大盛小学校のグラウンドに「春もうららの隅田川~」の音楽が流れていたことを覚えている。また、大盛小学校の跡地にある大盛館にはもしかしたら私が提供した宮田又小学校第一期生の写真2葉が展示されているかもしれない。

そんな意味合いもあって本書を購入したのだが、「鉱山開発の先駆者」と冠をかぶせることには抵抗がある。「荒川鉱山の民間の払い下げは、全く明治政府の民間払い下げの第一号と称して差し支えないものである。瀬川安五郎が「鉱山開発の先駆者」と言われるゆえんである」とするが、商業的に鉱山経営に乗り出すことを「開発の先駆者」と括っていいのだろうか。鉱山開発には多方面からのアプローチが必然であるが、ここには商業的に成功した経緯の一側面しか捉えられていない。

瀬川が教育に尽力したことは賞賛に値する。荒川鉱山の地域には酒場や遊郭が一軒もなかった。これは「鉱夫の経済的生活の安定と、富貴の取り締まりのうえから、鉱山内に設けることを」瀬川が「許可しなかった」のであり、これも他山の例からすれば特筆すべき事であろうが、瀬川が何故にこのような考をもちようになったのか、本書で知ることはできない。即ち、鉱山経営の功利性からなのか、あるいは瀬川の生活思想に基づくものなのか分からない。乱暴に言ってしまえば、瀬川が鉱山経営に専心するようになった真意、哲学を知ることはできない。そこが描き切れていないのが不満。

本書は5年ほど前に古書店から購入した。表紙裏に著者のサインとともに「謹呈 小野寺様」とある。読んだ形跡がなく、頂戴した人(或はその家族)は、古本屋に処分したのではなかろうかと空想を広げた。サインをして謹呈した著者が気の毒な気がする。

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7月末に上記のメモを書いていたが投稿するのを忘れていた。投稿したと思い込んでいたのだが、これも馬齢を重ねて70数年となった所為であろうと自分に言い聞かすしかない、ちょっと哀しいがことではあるが。

青木葉鉱山の坑夫取立面状を切掛に、友子関連のまとめを行おうとして文献を再読していた。一段落ついてから数ヶ月も放っていた。年内中には自分なりにまとめておこうと反省している。まとめは1回で済ませるつもりであったが、数回に及ぶであろう。

2021年7月28日水曜日

本2冊

 <佐藤孝編 『日立鉱山山神社物語』(日本鉱業、1981年)>:日鉱記念館を訪れた際に購入したもの。大鉱山の山神社-幾つかの読み方があるが、個人的には”さんじんじゃ”と呼称している-は大きくて立派で、祭礼も盛大であった。日立鉱山では1969(昭和44)年まで山中友子にの「自坑夫渡坑夫連合取立式」がおこなわれており、日立独自の歴史を感じる。

 <高田宏 『われ山に帰る』(岩波/同時代ライブラリー、1990/初刊1982年)>:友子に関連する箇所を読み直そうと、『足尾に生きたひとびと』(村上安正、随想舎、1990年)に目を通していたら表題の本に関するする記載があり、タイトルにも惹かれて古本を購入(10円の価格で送料が3百数十円)。小山清勝を描く「伝記文学の傑作」らしいが、内容には関心も興味も出てこなかった。途中から流し読み、最後には駈け足となって終わりとする。書名の「やまに帰る」の山は「鉱山(やま)」ではない。解説は山口昌男。

2021年7月7日水曜日

宮嶋資夫著作集 第1巻

  <宮嶋資夫 『宮嶋資夫著作集 第1巻』(慶友社、1983年)>:鉱山の「坑夫」系列と呼ばれる小説が集められている。「坑夫」(1916年)、それの未定稿で[資料]と付された「坑夫の死」、「恨なき殺人」(1916年)、「雪の夜」(1920年)、「犬の死まで」(1920年)、そして「山の鍛冶屋」(1926年)。括弧内は発表された年を示す。
 巻末の記載によれば著者は1886(明治19)年に生まれ、1909(同42)年秋頃から高取鉱山の現場事務員を1年数ヶ月勤め、そのときの体験と見聞をこれらの小説に作品化した。現在から約112年前のことである。しかしそれほどの時代の隔たりを感じない。自分が昭和20年代後半から30年代にかけて鉱山社宅で暮らしていたことの体験から、坑夫・鉱員の生活に多少なりとも既視感があるからからだろう。特に秋田県宮田又鉱山での社宅長屋などの記憶が大きい。ちなみに5年前に高取鉱山跡地を訪れようとしたが、水戸茂木線から少し入ったところで立ち入り禁止になっていて果たせなかった。
 全編を通じて感じることは次のようなこと。つまり、いつの世も現実から目をそらす権力者、その権力者に媚る亜権力者ともいえる管理者(管理したがり屋)、不満を身近の力ない者にぶつける者がいれば、酒に逃避する者もいる。あるいは自身の人生に悩む、瞞される、瞞す、等々の人もいる。言ってしまえば時代を超え、異なる舞台で同じような事を繰り返すということ。小説を読むとは一つにはその舞台を楽しむようなものなのであろう。そして、その舞台に普遍性や真実を求めようとすることが歴史に触れることの一側面なのであろう。
 『坑夫』は1916年に出版され、ただちに発売禁止となったが、読んですぐには、どこが、なぜそうなったのか分からなかった。1920年には『恨なき殺人』に収録され、7カ所が伏字になった。明治から大正、昭和には拍車がかかるかつての日本の負の政治が連想される。
 著作集の監修をした小田切秀雄が夏目漱石の『坑夫』を巻末で酷評している。すなわち、「これは異常な体験をすることになった男に聞いての作で、成功していない」と。