2022年10月12日水曜日
2022年9月18日日曜日
青木葉鉱山、坑夫取立免状 (4) 坑夫
近代化に伴って火薬で発破を掛けるようになり、また作業の分業化がすすむと、手掘りで発破孔を掘るのは坑夫、岩盤を削っていく進鑿夫、馨岩機を使用して掘るものは盤岩夫(鑿岩機夫)と言った。
鉱石を運搬するのは運搬夫(坑内運搬夫、旧称は負い夫)である。近代化された鉱山では鑿岩機の摩耗鑿の交換や故障鑿岩機の運搬も担った。負子や手子は補助作業者であり、負子は石集めや運び出し、木材の運搬などに従事し、手子は坑夫の下働きや手掘りの鑿の運搬、支柱夫の手伝いであった。雑役夫はその呼称通り雑役を担う労働であり、文献で見た訳ではないが負子や手子を括ったようなものであろう。雑役夫や運搬夫は坑内で働いても坑夫ではなかった。
すなわち「坑夫」とは坑内で採鉱労働に従事する者-手掘り坑夫(堀大工)・鑿岩夫・支柱夫(留大工)を指すものと捉えられる。
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2022年8月17日水曜日
青木葉鉱山、坑夫取立免状 (3) 青木葉鉱山の概要
久原鉱業は1928(同3)年に日本産業株式会社に改称し、1929(同4)年に鉱山・製錬部門を分離・独立して日本鉱業株式会社が設立された。本ブログで扱っている『青木葉鉱山取立免状』が交付された1929(同4)年は日本産業から日本鉱業に鉱業権が移った時期にあたる。
1996年に観光施設として旧青木葉抗がゴールドマイン高玉観光株式会社の名の下に設立された。そして16年後の2012年に休業となった。<5>
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青木葉鉱山、坑夫取立免状 (2) 再開-ここまでの経緯とこれから
「青木葉鉱山、坑夫取立免状 (1)」を載せたのが昨年2021年の5月23日、この史料を軸として「友子」の概要を自分なりにまとめようとし、資(史)料に当たりメモもとっていた。しかし、取立免状の構成に沿ってメモを整理し文章化することをサボリ続けた。
その後1年の間、前半は資料を読むこととメモの作成に集中し、後半に入ってからはサボリモードに入り、鉱山から離れて、すなわち気持ちの上では離山し、身近の関心事に気持ちを向けてしまった。出身高校の校歌をもじって言えば「難きを忍ばず易に就いた」ということとなろう。ともあれ、そのふらついてしまう浮気心に鞭打って、やっと日常生活の一部を再び鉱山に向けることとした。それが今年の梅雨入りの頃。従って以下の文章は6月から書き始めたものである。
構成としては最初に青木葉鉱山の概要-位置・開抗から閉山-をまとめておく。次に坑夫と友子について記述する。ここまでを前置き-いわば予備知識-として述べ、その後に青木葉鉱山の坑夫取立免状に書かれていることに沿って知り得たことを書きすすめる。
尚、私(筆者)は鉱山(金属鉱山)・砿山(非金属鉱山)・炭砿を使い分けることを原則としている-石油や採石は対象外-。しかし、本ブログ「青木葉鉱山、坑夫取立免状」においては特に断りがないかぎりそれらに共通する内容も多い。例えば「坑夫」と記すとそこには鉱山や砿山・炭砿での坑夫を含み、特に金属鉱山のみを意識しているわけではない。現に、近世では「鉱山」は金属鉱山を指し、近代に入ってからそこに炭砿や砿山が含まれるようになり、現在、「鉱山」を言葉にすると金属鉱山も非金属鉱山も採石も炭砿もすべて括られてイメージされることが一般的である。
2021年11月12日金曜日
荒川鉱山に関連しての一冊
<山田勲 『鉱山開発の先駆者
瀬川安五郎』(図書刊行会、1988年)>:住んでいたことのある宮田又鉱山の近隣にあった荒川鉱山、とはいっても荒川鉱山は1940(昭和15)年に閉山となっているが、自分にとっては記憶の中にある鉱山である。宮田又にいたときの運動会で、山を越えて行った荒川の大盛小学校のグラウンドに「春もうららの隅田川~」の音楽が流れていたことを覚えている。また、大盛小学校の跡地にある大盛館にはもしかしたら私が提供した宮田又小学校第一期生の写真2葉が展示されているかもしれない。
そんな意味合いもあって本書を購入したのだが、「鉱山開発の先駆者」と冠をかぶせることには抵抗がある。「荒川鉱山の民間の払い下げは、全く明治政府の民間払い下げの第一号と称して差し支えないものである。瀬川安五郎が「鉱山開発の先駆者」と言われるゆえんである」とするが、商業的に鉱山経営に乗り出すことを「開発の先駆者」と括っていいのだろうか。鉱山開発には多方面からのアプローチが必然であるが、ここには商業的に成功した経緯の一側面しか捉えられていない。
瀬川が教育に尽力したことは賞賛に値する。荒川鉱山の地域には酒場や遊郭が一軒もなかった。これは「鉱夫の経済的生活の安定と、富貴の取り締まりのうえから、鉱山内に設けることを」瀬川が「許可しなかった」のであり、これも他山の例からすれば特筆すべき事であろうが、瀬川が何故にこのような考をもちようになったのか、本書で知ることはできない。即ち、鉱山経営の功利性からなのか、あるいは瀬川の生活思想に基づくものなのか分からない。乱暴に言ってしまえば、瀬川が鉱山経営に専心するようになった真意、哲学を知ることはできない。そこが描き切れていないのが不満。
本書は5年ほど前に古書店から購入した。表紙裏に著者のサインとともに「謹呈 小野寺様」とある。読んだ形跡がなく、頂戴した人(或はその家族)は、古本屋に処分したのではなかろうかと空想を広げた。サインをして謹呈した著者が気の毒な気がする。
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7月末に上記のメモを書いていたが投稿するのを忘れていた。投稿したと思い込んでいたのだが、これも馬齢を重ねて70数年となった所為であろうと自分に言い聞かすしかない、ちょっと哀しいがことではあるが。
青木葉鉱山の坑夫取立面状を切掛に、友子関連のまとめを行おうとして文献を再読していた。一段落ついてから数ヶ月も放っていた。年内中には自分なりにまとめておこうと反省している。まとめは1回で済ませるつもりであったが、数回に及ぶであろう。
2021年7月28日水曜日
本2冊
<佐藤孝編 『日立鉱山山神社物語』(日本鉱業、1981年)>:日鉱記念館を訪れた際に購入したもの。大鉱山の山神社-幾つかの読み方があるが、個人的には”さんじんじゃ”と呼称している-は大きくて立派で、祭礼も盛大であった。日立鉱山では1969(昭和44)年まで山中友子にの「自坑夫渡坑夫連合取立式」がおこなわれており、日立独自の歴史を感じる。
<高田宏 『われ山に帰る』(岩波/同時代ライブラリー、1990/初刊1982年)>:友子に関連する箇所を読み直そうと、『足尾に生きたひとびと』(村上安正、随想舎、1990年)に目を通していたら表題の本に関するする記載があり、タイトルにも惹かれて古本を購入(10円の価格で送料が3百数十円)。小山清勝を描く「伝記文学の傑作」らしいが、内容には関心も興味も出てこなかった。途中から流し読み、最後には駈け足となって終わりとする。書名の「やまに帰る」の山は「鉱山(やま)」ではない。解説は山口昌男。
2021年7月7日水曜日
宮嶋資夫著作集 第1巻
巻末の記載によれば著者は1886(明治19)年に生まれ、1909(同42)年秋頃から高取鉱山の現場事務員を1年数ヶ月勤め、そのときの体験と見聞をこれらの小説に作品化した。現在から約112年前のことである。しかしそれほどの時代の隔たりを感じない。自分が昭和20年代後半から30年代にかけて鉱山社宅で暮らしていたことの体験から、坑夫・鉱員の生活に多少なりとも既視感があるからからだろう。特に秋田県宮田又鉱山での社宅長屋などの記憶が大きい。ちなみに5年前に高取鉱山跡地を訪れようとしたが、水戸茂木線から少し入ったところで立ち入り禁止になっていて果たせなかった。
全編を通じて感じることは次のようなこと。つまり、いつの世も現実から目をそらす権力者、その権力者に媚る亜権力者ともいえる管理者(管理したがり屋)、不満を身近の力ない者にぶつける者がいれば、酒に逃避する者もいる。あるいは自身の人生に悩む、瞞される、瞞す、等々の人もいる。言ってしまえば時代を超え、異なる舞台で同じような事を繰り返すということ。小説を読むとは一つにはその舞台を楽しむようなものなのであろう。そして、その舞台に普遍性や真実を求めようとすることが歴史に触れることの一側面なのであろう。
『坑夫』は1916年に出版され、ただちに発売禁止となったが、読んですぐには、どこが、なぜそうなったのか分からなかった。1920年には『恨なき殺人』に収録され、7カ所が伏字になった。明治から大正、昭和には拍車がかかるかつての日本の負の政治が連想される。
著作集の監修をした小田切秀雄が夏目漱石の『坑夫』を巻末で酷評している。すなわち、「これは異常な体験をすることになった男に聞いての作で、成功していない」と。