2016年9月13日火曜日

コメントがありました

私的で狭い範囲でしか書いていない鉱山の記事に初めてコメントをいただいた。「201685日金曜日」の「宮田又鉱山⑬ - おわりに」に公開されている。
宮田又鉱山の地における空間と時間に浸った気分になり嬉しくなった。

秋田を訪れたのは2年前で、そのときは秋田市旭南にある両親の墓のあるお寺、県立図書館、秋田大学鉱山博物館、県立博物館、宮田又鉱山跡地や大盛館などを訪れ、ついでに秋田市役所に近接する酒処で痛飲した。それから2年が経ち、自分の拙いブログに大仙市在住の方からコメントをいただき、再び秋田に行きたくなってきた。親戚と顔を合わせることもないし、行くところといえば飲み屋さんくらいしかないのだが。(コメントをくださった方の地、大仙市には刈穂・福乃友・秀よしの銘酒がある-すべて飲んだことがある。)

google傘下のbloggerでのブログであるせいであろう、この拙いブログは私の予想を超えた拡がりでアクセスされている(アクセスされた)。トータルのアクセス回数は僅かではあるが、1回でもアクセスした国は多い順に日本・アメリカ・フランス・中国・オーストラリア・ラトビア・ロシア・サウジアラビア・ドイツ・香港であり、日本以外の国名を見ると気恥ずかしさが先に出てくる。

宮田又鉱山や横田鉱山などに関して何か情報をお持ちの方がいらっしゃったら、ブログのコメントに限らず、下記のアドレスにメールをいただいても有り難いです。
 takahac.toc@gmail.com

2016年9月2日金曜日

中学同級生の名字

小学校2年の時に秋田県から奥会津/金山町横田に移ったとき、馴染みのない名字に触れたことが印象に残っている。秋田県に居住していた時には三浦・佐々木などを耳にしていたことを覚えている。ところが、横田に来たときは、菅家(かんけ)や須佐、横田、奥などは初めて知った名字であった。世の中に多くある田中や高橋、佐藤は一人もいなかった。どんな名字が身近にあったのかそれこそ身近な資料でちょいと分析してみた。

 『若い芽 昭和39年度卒業記念文集 大沼郡金山町立横田中学校』が手もとにある。学校長による巻頭言に続いて頁を捲ると「卒業生に送くる(ママ:筆者註)言葉」になり、教頭を筆頭に8人の教師の言葉が記載されている。そして同級生94人の50年前の文章を読むことが出来る。文集に掲載されていない一人を加えて95人は男50人、女45人である。95人の名字は下図のようになっている。




菅家は金山町で一番多い名字である。渡部は3番目、滝沢は5位、横田は9位である<1>。“菅家”は菅原家が縮まったものであると何かで見たことがある。また、菅家=菅原家は会津山内氏にも繋がる。“渡部”は福島県に多く、サラリーマン時代の私の知人渡部某は自己紹介の時には「“ぶ”のわたなべです」と一々断わっていた。“横田”は地名と同じで、“奥”は土倉集落に集中し、 “滝沢”も滝沢という集落があり、“新国(にっくに)”は只見町に多く、“三瓶”も同じ。会津に多い“目黒”は二人で、“栗城”は一人だけ。同じく会津に多い“星”はいない。“五十嵐”は新潟から会津に多いらしく、高校同窓の親しい友人に二人いる。“須佐” については分からない、
鉱山社宅に住んでいた者は上図の太字で示した奥井・御法川・高橋・白川で、横田に居たときに地元の人でこの名字には出会ったことはない。
ちなみに、就職してから“星”さん3人と知り合った。「会津に縁がないですか」と尋ねたら3人とも会津に関係していた。一人は我が家の裏の星さんで田島町(現南会津町)出身、一人は会津に親戚がおり、もう一人は父親が私の高校の先輩だった。ついでに書くと、私が勤務していた会社の同僚である“栗城”は母親が金山町の出身で、夏にはよく金山町を訪れていると言っていた。

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<1> 「奥会津金山町観光物産協会official」(http://ameblo.jp/town-kaneyama/entry-12001020748.html)より、2016年8月30日。