ここでは共助・共済の一つである奉願帳について延べ、さらに友子の語源について記す。
奉願帳
坑夫が病気や怪我になって働くことができなくなってもいずれ治療して治れば一時的な休業となり、その期間は山中友子が面倒をすることもできる。しかし、重い疾患や身体的障害となればその山中だけで救済することは困難となる。その場合、その坑夫には奉願帳あるいは寄附帳を持たせて他の山の友子交際所を歴訪させて一宿一飯の便宜や寄附をあおぎ余生をおくることとなった。この奉願帳制度の期限はよく分かっていないが、明治20年後半には確立していたのではないかと村串は考えている。
奉願帳には2種類があり、一つはその奉願帳を所持する者が一人ではヤマを巡ることができないような重度の傷病となった場合に持たせる奉願帳を「送り奉願帳」と称し、訪れた先の箱元はそのヤマの友子の中で費用を負担して次に訪れる先まで送り届ける義務があった。一方、独力で鉱山をまわれる者に与えられる奉願帳は「平奉願帳」と呼ばれた。山を巡り巡れば奉願帳への記録記載が増えて紙数が尽き、訪れた先の交際所で紙を補充した。
寄附帳は、奉願帳に準じ、重い傷病ではあるが将来に回復が見込まれる者に与えられた。発行手続きや機能は奉願帳とほぼ同じであった。
すなわち、奉願帳制度は、その発行に視点を向ければ山中友子の交際が捉えられ、他山を訪れる者に視線を向ければ箱元交際が見える。
友子の語源
武田久義はいくつかの見解を紹介している。すなわち、①「抗夫は全で友人であり,親子の関係と同様である意」、②「親が子供の世話を見ると同断である所から,共に子供である意味」、③「『子』は労働関係における親方子方の”子”。『友』は,同質労働者としての意」であると。高橋揆一郎は②を推測している。
「友子」は1833(天保3)年(尾去沢鉱山)、江戸後期の古文書(会津/只見/餅井戸銅山)に「友子」が確認されている(村串)。
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参考文献は以下。
- 村串仁三郎 『日本の鉱夫 -友子制度の歴史-』(世界書院、1998年)
- 高橋揆一郎 『友子』(河出書房新社、1991年)
- 武田久義 『友子の一考察-保険類似機能を中心に-(2)』(桃山学院大学経済
経営論集、35巻、2号、桃山学院大学経営学部、1993年)
「友子」に関する私(本ブログ著者)の記事は、村串の著作・論文を食い摘まんで抜き書きしているに等しい。
高橋揆一郎は、『伸予』で芥川賞作家となり、炭砿を舞台にした『友子』で新田次郎文学賞を受賞した小説家である。小説を参考文献に載せることは通常はありえないが、炭砿長屋(歌志内)に生れ、炭砿企業で働き、炭砿に密接に生活した著者の『友子』は現実の炭砿生活を濃く描いておることもあり、参考文献扱いとした。